2012年度・2013年度—1回目と2回目を振り返る

 年度の最初から本格的に『学び合い』の考え方に基づいて(というかそのつもりで)授業を実践したのは、2012年度(都立豊島高校での4年目)からです。「生物基礎」2単位を第1学年全クラス担当していましたので、そこで実施しました。翌2013年度は、都立保谷高校(現任校)に異動しましたが(あ、『学び合い』で追い出されたのではないですよ・笑、新カリキュラムで1年間「生物基礎」の授業がなかったためです)、そこでも「生物基礎」2単位を第1学年全クラス担当となりました。年々改善し、良くなったことや成果もありますが、ここでは敢えて失敗したことを記載したいと思います。

 誰かの何かの役に立つかもしれないことと、自分自身の振り返りのためにも、そこは避けて通らない方が良いと思っていますので。

 

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 結論から言えば、上手くいかない原因は、全て自分にあります。自分のせいにできないと、いつまでももがき苦しむことになります。「結局、自分の考えが至らなかったのだ」とどこかで納得できると、いつの間にか一歩前進している、という感じです。最初は正直、自分のせいにするのに抵抗がありましたけれど、一旦、それが納得できると、あとは常に自分に目を向けることで、解決の糸口は見つかるようになります。その後はずっとそうやって改善を図っています。『学び合い』を実践することは、結果的に、自らを変革することでもあります。

 

この2年間で気付き、改善を図った問題点を5点挙げます。


(1)「一人も見捨てない」集団をつくる、という意識が自分の中で低かった。

―「見捨てない」の主語は、私自身でもあり、クラス集団でもあり、生徒さん一人一人でもあります。しかし、これを「みんながわかる」に置き換え、「全員達成」という側面だけしか見ていなかったように思います。この学習「方法」を用いて、学力を向上させよう、一人一人がわかるようにしよう、という意識が強く、集団の在り方や取り組みという視点で、クラス集団の活動を見ることができませんでした。考え方ではなく、学習「方法」としての『学び合い』だったと思います。

 

(2)素直に「褒める・認める」=評価することができなかった。

―「目的・目標」の設定と、それと一体化した「評価」は、重要な教員の役割です。「評価=小テスト・定期考査」ではないですし、「=学期・学年末の評定」ではないと思っています。授業のほとんどを彼らの主体的な活動に充てているのですから、毎時間の彼らの取り組みを「評価」することは、授業を担当する教員として極めて重要なことです。しかし、それができていなかった。授業の最後の一言でよいのです。でも的確な一言で集団を評価するためには、その時間、集団を丁寧に見取ることが必要になります。特に良い取り組みのときに、ちゃんとそれを言葉にして伝えることは、彼らにとって、自分たちの活動を進める上で、大きな安心感に通じるものなのですが、それができませんでした。褒めることや認めること、そういう言葉を発することが苦手であるという、自分の課題が浮き彫りになりました。そして、その結果、『学び合い』を理解して、率先して取り組むことにブレーキをかけてしまったと思います。

 

(3)気になる生徒に気をまわし過ぎた。

—授業中、生徒の学習態度や取り組みは、こうあるべきである、というこちらのイメージが優先すると、表面上そうではない生徒さんのことがとっても気になります。特に最初の頃は、取り組まない生徒さんやそのグループに対して、何とかしようという意識が強くなり、厳しく注意することも多かったです。私の中で、生徒(集団)の力や在り方を認めていないから、そういう言動をとってしまったのだと思います。教員が、そのように表面的な解決を目指そうとすれば、彼らもまた表面的に応答することになります。本質的な解決からほど遠いものになり、結局、解決しないまま、終了の時を迎えました。その原因を作ったのは、私自身なのです。彼らの、そのときのあるがままをまず受け入れ、そこからどうすればよいのかを考えること、そして短期的ではなく、長いスパンでそれを見通すこと。今はこの2つが大事だと思っていますが、当時は、そういう見方が全くできませんでした。

 

(4)課題が難し過ぎた。

―シンプルな課題ではなく、ひとひねり、ふたひねりの課題が多かったです。凝った課題作りが面白い、という自分を軌道修正できないまま、教員ウケする課題を作り続けていました。似非な教材研究です。その結果、「開始15分でクラスの二割が達成できる」という原則通りに実施しなかったため、生物の得意な生徒は相応に楽しく取り組んでいましたが、苦手な生徒は明らかに置いていかれることになりました。集団での学びではなく、結局ゆるい個人またはグループ競争に終始することになりました。

 

(5)教科の内容にこだわり過ぎた。

―これくらいはわかるようになってほしいという拘りが強過ぎました。教科内容を学ばせることが、一人も見捨てない集団になってほしいという願いを上回っていました。つまり、高校生物を『学び合い』で教えようとしていました。このホームページの「高校生物で『学び合い』を伝える」という表題は、このことの反省でもあります。また、学習指導要領を熟読し、その本質に絞り込めば、枝葉のことをしつこく学ばせる必要はありません。全員にわかってほしいことは、いくつかの幹だけです。その幹が何かをつかむこと、それを集団で学ぶことができるようにお膳立てすることが、教材研究、というか授業研究(授業準備)だということに気付いていませんでした。


 これらの5つの問題点に共通するものは何だろうかと考えると、それは「自分自身が、直近の授業をどうするか」という視点しかもっていなかったことだと、気付かされることがあります。

 『学び合い』もそうですが、その根本には、「何のための教育か」「教育とはそもそも何なのか」という問いがあると思います。当然ながら、まだその問いに対する明確な答え(実感)はありません。しかし、私の営みにには、そういう問い立てが不可欠なのだと思います。

 生徒さんたちの実践を全力で観察することを通して、そこに炙り出される問題点を、私自身の根本の問題と認識して、ひとつひとつ取り組んでいこうと思います。不器用ですので、そんな地道な作業を、諦めずに継続する中で、何かしら実感することが得られるのではないかと思っています。

 

(2015年2月23日・記)

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